mind

ねばべき思考から自分を解放してあげよう

ねばべき卒業しよう

 

  • 人の役に立たねばならない
  • 何かを成し遂げねばならない
  • 悩んだら答えを出さねばならない
  • ポジティブに考えるべき
  • 一貫性を持って生きるべき
  • 迷惑かけずに生きるべき

 

うるさぁぁぁぁい!!!

無限に湧き出る『ねばべき』論、いちいち鵜呑みにしなくてよし!

適用するかしないかを決めるのは、自分自身よ。

 

『~ねばならない』や『~すべき』って、使えば使うほど、自分も周りも窮屈にさせてしまう表現だと思うの。

だけどなんで使っちゃうんだろう?

ってことで、『ねばべき』を深掘りしてみました

 

わたし自身が『ねばべき』に囚われていた過去の経験や、解放されるためにやったことについてもまとめたので、『ねばべき』しんどい…ってなっている人の参考になれば嬉しいです。

 

謎の幻想に囚われなくていい

  • 『ねばべき』は誰かのマイルール
  • 選択権はわたしたちにある
  • わたしの『ねばべき』エピソード

 

『ねばべき』は誰かのマイルール

『ねばべき』って、ものごとの定義づけと関係してるのかなと。

 

たとえば、どこかの誰かがこういう定義づけをしたとします。

Q.いい大人とは?

A.社会貢献している人

この定義づけによって、「いい大人になるためには社会貢献すべき(しなければならない)」っていうルール?方程式?が完成する。※その人の中で。

 

定義はあくまでも自分が自分自身のために決めるもので、つまりはマイルールみたいなもの

なのに、自分だけじゃなくて自分以外の誰かにも適用させようとするから、ややこしくなるんだよね。

 

さすがにもういつの時代?ってなりそうだけど、

Q.幸せとは?

A.いい学校出て、いい会社に入って、いいパートナーと結婚して、いい家に住んで…

とかね、まさに『ねばべき』の極みとでもいいましょうか。

 

もっと言うと「いい学校とは?」「いい会社とは?」ってさらに掘り下げて、定義づけし放題。

結果、そこに当てはまらないならダメ!っていう極端な思考になっちゃうんだよね。

 

 

選択権はわたしたちにある

親が自分自身の定義を子どもにも(悪気ないどころか愛情で)押しつけちゃうのが、『ねばべき』発生源の定番なんじゃないかな?

どんなに近しい関係性だとしても「価値観は人それぞれだから、定義も人それぞれ」を忘れないでいよう。

 

いろんな人がいる社会をカオス化させないために、法律が存在しています。

そこを守ったうえであれば、誰かの持ち込むルールを自分自身のルールとして適用するかしないかは、わたしたち個々の自由なんです。

 

今、息苦しさを感じている原因が『ねばべき』だったとして、その『ねばべき』は誰が生み出したものですか?

 

 

わたしの『ねばべき』エピソード

20代までのわたしは、「頑張らねばならない」を24時間365日どこへでも連れて歩いていました。

 

このときのわたしの定義づけを見直してみると…

Q.幸せとは?

A.頑張った結果、手に入れられるもの

つまり、『頑張らないと幸せにはなれない』って決め込んでたのね。

 

でも、絶望して疲れ切った時期、頑張る気力がなくて、この定義をいったん取り下げざるをえなかった。

頑張ってない自分でも幸せになりたいから、「今だけは幸せのためにちゃんと休む」って定義を書き換えて自分を正当化していました。

 

そうやって逃げてみたら、頑張ってない自分のほうが幸せそうだってことに気づけたんです。えへへラッキー

自分を縛っていた定義の矛盾に気づけたの。

 

だから、わたしは「頑張らねばならない」とお別れすることができました。

今のわたし的幸せの定義は、幸せに条件はいらない。

今幸せを感じてるならもう幸せってこと。それでいいよね

 

 

 

『ねばべき』とお別れする方法

『ねばべき』を1つずつ手放していくために、この4ステップで整理してみてください。

  1. 無意識に適用してる『ねばべき』に気づく
  2. 「それって本当?」と疑ってみる
  3. なぜ囚われたのか定義を見直してみる
  4. 定義とお別れをする

 

自分の中に『ねばべき』が存在しているってことは、何かに一生懸命だった証拠です。

  • 幸せになりたいなら~すべき
  • 美人になりたいなら~すべき
  • 成功したいなら~ねばならない

こんな風に叶えたい何かがあるから、『ねばべき』も生まれますよね。

 

だから、一生懸命ゆえに囚われてしまった自分に「その節はありがとう!もう大丈夫!」と、感謝の気持ちでお別れしましょう。

 

 

 

シンプルに生きるが幸

どんな『ねばべき』も、そのときの自分には必要だったのかもしれません。

ある種の鎧みたいなね。

 

情報が飛び交うこの時代、謎の定義に囚われやすいんだと思う。

価値観も定義も人それぞれだから、(どんなに偉大な人であろうと)誰かの定義をまるっと受け入れず、ひとまず咀嚼しましょう

フィットする洋服が一人ひとり違うように、フィットするルールも違います。

 

自分を縛っている『ねばべき』に気づいたら、定義を掘り下げてみてください。

わたしも最近チャレンジ中!

 

  • この記事を書いた人
(仮)Mikazuki

みかづき

30代|在宅ワーカー|HSS型HSP|ENFP|パラレルワーカーを目指してハートとスキルを磨くアラサー|仕事もプライベートも自分軸を大切にする生き方|器用に生きられない・もっと楽に生きたい人へ向けて、不器用でも楽しく生きる方法をシェアしています。

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