今回は、器用に生きようとして疲れちゃってる人向けのお話。
過去のわたしのことなんですけどね。
生き方に正解不正解はないけど、人それぞれにフィットする・しないはあると思うの。
『器用な生き方』や『器用な人』に憧れて、そっちに舵をとってみたけど、わたしの場合はなんかしんどかった。
未練なく諦めてみたら発見があったのでシェアします!の回です。
器用を目指すと疲れるのはわたしだけ?
わたしの思う『器用な人』は、仕事もプライベートもうまく立ち回って、世の中からはみ出すことなく生きてるような人。
- 効率的に生きている人
- なんでもできる人
- 有能な人
- 当たり障りのない人
こんな感じで、不器用な人よりは生きづらくなさそうじゃない?
だから、器用な人になりたいと思っていました。
けどね、「器用になったわたしは幸せなのか?」って哲学してみると、違う気がして。
器用になろうとすればするほど、迷いは増えていったし、人と比べちゃっていたし、あれもこれもと欲張りすぎていたし、自分が誰なのかわからなくなっていました。(カオス)
それで、器用に生きようとするのはやめたの。
そもそも器用な人だったとしたらこういう悩みは生まれないはずだし、わたしには適さない生き方なんだなと受け入れた。
そしたら発見があったから書き残しておくね。
器用に生きるのを諦めたらわかったこと
- 完璧主義をやめられる
- 自己理解が深まる
- エネルギーを消耗しにくくなる
1.完璧主義をやめられる
器用に生きようとするのをやめるのは、完璧であろうとするのをやめるのに近い。
なんでもうまくできる人のことを『完璧』って呼んだりするけど、"なんでもうまくできる"と"器用"って似たような言葉だと思いませんか?
てわけで、器用を手放すと完璧も手放せるんです。
できないことがあってもいいし、うまいことやるのは重要じゃないってことが腑に落ちる。
すると、すべてを要領よくやろうとして自分を追い詰めてしまったり、他人にも完璧を期待してしまったりするのをやめられます。
つまり、めちゃくちゃラクになりました。
2.自己理解が深まる
「わたしは器用に生きられない」と認めたら、自分に優しくなれました。
- できないことがあってもいい
- 要領悪くてもいい
- 誰とでもうまく関われなくてもいい
- 仕事できる人を目指さなくてもいい
すると、これまで隠そうとしてた自分が少しずつ顔を出し始めまして…
「それなら、こんなわたしでも仲良くしてくれる?」って感じで、めちゃくちゃに主張してきたの。
できないこともやりたくないこともたっくさんあるし、「要領のよさが人生をつまらなくさせている」って心のどこかではずっと思ってたし、人の好き嫌いもはっきりしてて我慢して付き合うことにうんざりしていたし、会社で評価されても心躍らないし。(早口)
そうだよね、これがわたしだわ!ってやーーっと自分自身と手をつなげた気分です。
器用に生きようと頑張り続けていたら、嘘偽りのないぶっちゃけた自分にはきっと出会えませんでした。
(本音って、聞き入れてくれないだろうなって察したらすぐ心の奥底に引っ込んじゃうんだね!)
3.エネルギーを消耗しにくくなる
個人的なイメージでは、"器用に生きる"ってマルチタスクな日々。
どんな人ともどんな環境でも卒なくやっていける人ってありがたいから、引っ張りだこでしょ?
だから、いつも同時進行で脳がフル回転している感じ…?
それを好きなことに機能させているなら「充実してそうで羨ましい!」のひと言です。
だけど、好きじゃないことに機能させていたり誰かの指示でやってたりするなら、心身の消耗がすさまじいんじゃないかな?と、勝手ながら思うの。
正直、それって貧乏くじ引いてるだけじゃない?
と。(助け合いの精神とか響きはいいけど、時に残酷なものだなと思うわけです)
器用を諦めると、"何事もそれなりにいい感じにやってくれる人"的ポジションからは降りられますよね。
てことは、器用な人にするような期待感は持たれないし、頼まれごとも減ります。
結果、エネルギーの消耗も抑えられる。
しっくりくる生き方を探す
本当に器用な人は器用に生きたらいいと思うの。
わたしは"器用になろうとした"から苦しさを感じただけで、生き方には適正というか"らしさがあるかどうか"みたいなものがある。
わたしにとっては、器用に生きようとすることが足かせになっていたんです。
もし、同じように息苦しさを感じる人がいて、その原因のひとつに『器用な生き方』がありそうだったら、いったんその価値観から離れてみてください。
人それぞれしっくりくる生き方って違います。
憧れの人を参考にしてみたけど違和感を覚えたり、同じ環境で育った兄弟姉妹でも全然違う価値観で人生を歩んでいたり。
大切なのは「自分はどう感じるか?」なので、体感しながら探ってみてくださいね。